何故か
町づくり,街づくり,まちづくり,と言葉はいろいろありますが,ここではいう“まち”は,コミュニティを意味します。小さくは家の中のコミュニティに始まり,向う三軒両隣,数十から数百戸の住宅地,或いは一つの商店街等を意味します。
敗戦後半世紀以上,都市部から農村まで国中を良くするために,インフラ整備に大変なお金をつぎ込んできました。当然一定の成果は上がっていますが,果たして今の地域社会を心豊かなコミュニティだと評価できるでしょうか。
平成18年6月,国土交通省は40年ぶりに住宅整備に関する考えを改め「住生活基本法」を成立・施行しました。その重点施策の一つに「良好な住居環境の形成」があります。つまり,今までそれが施策の中になかったということです。この数十年,毎年100万戸以上の住宅を造り続け,大変なお金を注ぎ込んでしまった今になって,何を今更,の感を否めませんが,良いことです。
今の世相は悲惨を極めています。親子,夫婦,兄弟の虐待・殺人が続発し,小・中・高校生の登校拒否やいじめ,暴走族,官公庁の組織的不正と背任,事業家の企業倫理の欠如,等々,異常事態は枚挙にいとまがありません。
世の中に不正と犯罪が無くなるなどということはあり得ないと思っていますが,問題は程度です。
06年の国連調査によると,日本国民一人当たり富の平均は米国を抜いて世界一になりました。原爆を落とされ無条件降伏した小国日本が世界一の金持ちになったこと自体は賞賛すべきことです。
しかし一方で,自殺率は10万人当たり24.1人で先進国では断突トップ。韓国は14.5人,アメリカは10.4人です(WHO調査04年)。日本では毎日約100人が,しかも小中学生まで自殺しています。イラク戦争でアメリカは,開戦以来4年間で3000人の犠牲者をだしましたが,日本の自殺の1ヶ月分です。
更に電通総研の資料によると,幸福度の国際比較では,北欧・カナダ・中南米・米国が上位にあり,日本は22位でした。
これらのデータは,日本の驚異的な経済の発展が人々の幸福に繋がっていないことを意味しています。「経済栄えて,国滅ぶ」などという人も出てきました。別の表現をするなら,国民の生活環境整備と幸福を犠牲にして経済を発展させてきたと言えるのではないでしょうか。
考えてみれば,経済・政治・文化等々全ての人間活動が希求するところは,ひとり一人の幸せの筈です。
なのに何故,目ざましい経済の発展が国民の幸福につながっていないのでしょう。私たちは,生活環境整備,つまりコミュニティづくりを軽視してきた結果だと考えています。
何故なら,全てを為しているのは人間であり,人間を育てているのはコミュニティだからです。
コミュニティの質こそがその地域の価値を決めるのではないでしょうか。そして国家の価値も。
コミュニティの大切さ
わたしたちは,「地域」の中,「まち」の中,「家」の中,つまりコミュニティの中でしか生きられません。
「親はなくても子は育つ」と言う言葉があります。殺したり虐待するような親ならいない方がいい。しかし,「コミュニティ」がなければ,子は育ちません。社会生活をする人間にとって,コミュニティは絶対不可欠です。
「コミュニティ」は人間を育てる土壌です。土壌が良好に維持管理されていれば,そこには姿形も栄養も豊かなすばらしい野菜が育ちます。同様に,心の豊かさを育むようなハードとソフトを備えたコミュニティには,必ずや立派な人間が育ちます。世界にはそういう実例があり証明されています。その逆は,結果も逆になります。今の日本はそうなっているのではないでしょうか。
ですから,人間を育てる土壌であるコミュニティほど,大切なものはない筈です。しかし、残念ながら,我々は経済にばかり気を取られてきて,良好なコミュニティの形成について,真剣に考えてきたとは言えないように思います。
私は,平成9年春,「サステイナブル・コミュニティ」(学芸出版社:川村健一・小門裕之共著)という1冊の本にであい,強烈なショックを受け目覚めました。サステイナブル・コミュニティとは,半永久的に持続可能なコミュニティという意味です。
「コミュニティ」という言葉
あえて横文字は使いたくないが,「コミュニティ」のいい日本語訳がありません。「住環境」,「集落」,「部落」,「地域社会」,等々考えられるが,いずれもしっくりときません。「部落」も「集落」も家の集合体を表しているだけのような気がするし,「住環境」という言葉もあいまいで,「地域社会」という言葉は,範囲が広すぎるように思えます。
「コミュニティ」という言葉には,人と人の心の繋がり,つまりソフトウェアが含まれています。単なる家の集合体ではない。わたしは敢えて「コミュニティ」を訳してみると,「連帯感のある集落」となりました。しかし,面倒くさいので「コミュニティ」をそのまま使うことにしました。
念のためブリタニカを引いてみると,「コミュニティ」では出ていなくて,「地域社会」の中に,「コミュニティの概念とその意味」という子見出しで,次のように書いてあります。
「コミュニティという言葉は,実体的な地域社会を意味すると同時に,共同性をその一つの特質としているだけに,もともと人々の間の望ましい結びつきを意味する場合もあったが,1970年代以降の日本では,独特の価値的な含みをもった言葉として用いられるようになってきた。コミュニティという概念は,現実に存在する地域社会よりも,むしろ理念的なものとして,市民としての自主性と責任とを自覚した住民が,生活する地域に対する帰属意識を持ち,共通の目標を目指した共同活動をとろうとする態度を意味するものとして用いられた」。更に,「地方自治体の役割が大きくなる中で,住民自治の単位を築いていくためにも,コミュニティには大きな期待が寄せられる」とあり,結局,「地域社会」とは意味合いが違うようです。
「公」という考えが必要
日本では戦後一貫して,計らずもコミュニティを破壊し続けてきたと思います。幾つかの原因があると思いますが,一番大きな理由は,戦後教育による自由の履き違えと,「公」という考えの欠如だと思います。行き過ぎた権利と自由の主張が,社会形成には不可欠な「公」(パブリック。官ではなく)という概念を欠落させてしまったのではないでしょうか。
その一つの現れとして,土地と家と“まち”は公的な物であるという価値観を捨ててしまったことが挙げられます。その結果,「自分の土地と家」は100%自分の所有物であり,「他人にとやかく言われる筋合いはない」というエゴイズム丸出しの価値観が生まれてしまいました。
土地は造った人がいないのですから,本来誰の物でもない筈です。たまたま何かの縁で使う権利を持っているだけで,たどり辿って行けば,侵略したかそれとも何らかの権力により所有したか,或いは与えられたか,どれかの筈です。一定の代価を払うことによって自分が使わせてもらっているだけ,と考えるのが正しいと思います。
家は,人間が造る物としては最も大きな構造物であり,その外観は雰囲気を変え,街の景観を変える巨大物体です。これらが100%自分の所有物であると考えるのは,社会性を失った価値観だと思います。
家のインテリアは,他人目には触れないので100%自分のものと言っても良いかも知れませんが,外観は公ですから,いろんな制約があっても当然ですし,世界はそれが常識になっています。
作家の塩野七生氏は,対立関係になってしまう「官と民」という考え方はダメで,「公と私」という考え方にすべきだと提言しています。みんなのものか,私のものかということだと思います。民=住民=公の物はあっても,役人=官のものはない筈です。
公という価値観を失ったために,コミュニティは崩壊したのであり,残念ながら日本に美しい街並みやコミュニティは少ないのです。
旧街道はコミュニティだった
昔は「いい町」だったとよく田舎では話されます。私は中山道の芦田宿で育ちました。小学校に入学する前,確かに今思い出しても,人々の心が通い会うコミュニティがあったと思います。それを可能にさせていたハードウェアがあったからです。
まだ舗装もされていない芦田宿の通りには,両側に石垣の水路があり,各家の前には洗い場があり,きれいな豊富な水が流れていて,人々は朝から晩まで,水の用はほとんどそこで足していました。水草も生えていたように思います。
井戸のある家はお医者さんとか,本陣とか,商売屋くらいで,ほとんどの人は共同の和泉に汲みに行くか,井戸のある家にもらい水をして生活をしていました。従って,朝から晩まで,人々はお互いに挨拶を交わし,井戸端会議をしながら生活をしていました。通りに車はほとんどなく,そこは子どもの遊び場であり,年寄りのくつろぎの場であり,買い物に来る人々との交流の場でした。まさしくそこにはコミュニティが存在しました。街道そのものがコミュニティの中心的ハードウェアでした。
車社会がコミュニティを破壊
コミュニティの道路に一般交通車両を入れてしまうと交流の場がなくなってしまいます。ところが歴史の古い日本は,車のない頃つまり徳川時代に,既に国中に宿場町と集落ができあがっていました。そこはコミュニティだった筈です。
そこにモータリゼーションの波が襲いました。車は便利です。その利便性と引き替えに,コミュニティの中心的ハードウェアであった道を車に引き渡してしまいました。水路はコンクリートで蓋をされ,街路樹は抜かれて,子供の遊び場はなくなり危なくて外に出られなくなりました。車の利便性に気を取られて,コミュニティが崩壊していくのが見えなかったのではないでしょうか。
人々が毎日自然な形で交流するためには,それにふさわしい場が必要です。どうしてもそれを潰さなければならない時は,その代替えを考えなければならなかった訳ですが,そのことに気付かなかった。気さえつけば,想いさえあれば,日本の経済力をもってすればできない筈はなかったのに,日本中でコミュニティが崩壊してしまったのはこのような理由が大きいと思います。
今こそコミュニティの復活を
ところが,日本中の大方の町にバイパスができました。街中の一般車両交通量が大きく減っています。私の住んでいる芦田宿などほとんど通行車両がありません。
チャンス到来です。2車線ある車道を,登り方向の一方通行にして,石垣水路を復活し,歩道を広げ,街路樹と花を植え,緑と交流の空間を広げるのです。
個性のある美しい人・場所には人が集まります。この不況の中でも盛っている街はどこも特徴がありきれいです。その美しいコミュニティで,休日には子供からお年寄りまで通りに出て,遊び語る情景に想いをはせましょう。
非行少年がいなくなり,お年寄りがベンチに腰かけ,不審者が近づかなくなり,犯罪が減り,街に笑い声がもどるようにしたいものです。
個性のあるコミュニティのありかたそのものが商品になっていくのではないかと考えています。
結び
今問題なのは、コミュニティの衰退により、基本的に生命力の弱い「おかしな人間」が増えていることです。すぐ切れてしまう,すぐダウンしてしまう,すぐ死んでしまう,簡単に人を殺す,そんなのが多すぎます。
広汎性発達障害という病気があるそうですが,幼児期の育児環境が悪いために前頭葉の発達に障害が出る病気で,ことの善悪の判断がつかなくなるのだそうです。最近の殺人事件を見ていると,これが現実になっているように思えてなりません。
考えなければいけないのは,上記ような理由で犯罪を犯す子供や大人達は,加害者ではあるのですが,良く考えると被害者なのではと思うことがあります。悪い畑で作られた野菜がまずいと言って,その野菜を責められるでしょうか。
また,日本中に「ふれあい……」と冠のついた建物や広場が盛んに作られるのは,日本中にふれあいが無くなってしまったことを証明しています。
おかしな人間をなくし,ふれあいを取り戻すには,補導員や医者と監獄を増やすのではなく,
まちづくり=コミュニティづくりしかないというのが私達の結論です。
完